死にたい気持ちと向き合う心

LRです。

ちょっと前ぐらいからたまに記事にしてるのですが、最近よく死にたいなと思うようになりました。

理由はまあはっきりしているのですが、何となく、思っていることを書いてみたくなったので書きます。

死にたい気持ちと向き合う方法、今日はそんな話です。

なぜ死にたいと思うのか?

それはその時の人生のフェーズであったり、状況によって色々だと思います。

何かにすごく疲れてしまった時。
物理的あるいは精神的に、生き延びるのが難しい時。
単に生きることに満足してしまった時。

本当に死にたいと思っている時もあれば、実は生きたいの裏返しなこともあるでしょう。
でも、どれも辛かったり、終わろうかなぁと思うのは一緒です。

僕が本気で死にたいと初めて思ったのは、12年前でした。

直接的な行動はほとんど取れなかったけど、台風のような嵐の日に、大きな川の濁流を、橋の上から見るのが好きでした。

叔父が橋の上から身を投げたと聞いたことがあるので、そのこともイメージにあったのだと思います。

あの時は、とにかく疲れていました。

「もう人生いいや」と思うのと一緒に、生存欲求なのか、現状を理解しようとして、ひたすら思考も続けていました。

今はどうか?

と言えば、「もう人生いいや」と思ってる点では同じです。
未だに川を眺めるのが好きですが、時々無性に、飛び込みたくなる衝動にかられます。

ただ、どちらかと言えば、満足に近いです。疲れたのもあるけれど。

考えることは考えてしまったし、世界のこともなんとなく理解できたし、
音楽や表現はもっとやりたいけれど、表現の上ではいつまでも同じ延長線上なのだろうから、後は広めるとかしかやることがないです。

このブログも、僕のゴミみたいな人生の中で考えてきたことが、少しでも役に立てばいいなぁと思って作ったけれど、
それもマストではないので、命をつないでおくイカリとしては軽いような気がしています。

おまけに、お金・地位・家庭などにもほとんど興味がないし、それでいて、歳を重ねるごとに視線は厳しくなっていくから。

すごくこの世は、生きづらいなと。

物理世界に足をつけている以上、精神世界の探求は深くなればなるほど、視力の良い人しか見えなくなるのであって、そこに絶望的孤独が生まれるのだろうなと、いつも感じています。

それでもエンジンが止まらない、ブレーキのない車に縛り付けられた人の目には、何が映るのでしょうか。

そんな風に「死にたい」が走り出す時、穴が空いていく体を見ながら、こう思ったりします。

死にたい気持ちは、そのままほっとこう。

死にたいと言うと、なんか心配するとか、自殺相談ダイヤルを進められるとか、
「そんなことやめなよ」「誰かに打ち明けなよ」「死ぬのはダメだよ」なんて声をよく見ます。

それは決して悪いことじゃないけれど、なんか、そういうことじゃないのです。

正直に言えば、かまってほしい気持ちもあるけれど、そうじゃなくて、自分としては放っておきたい気持ちもあって。

だから死にたいと思った時は、僕は十分な絶望に浸りながら、それなりの行動をして、放っておくことにしています。

ご飯を食べても、寝ても解決しない時はあるけれど、それでも落ち着くまで放っておくんです。

するとしばらくして、そのしばらくがどれぐらいかは分からないけれど、ふっと何かが目につきます。
それを手にとって、遊んでみると、何だか光が差して、救われた気がするんです。

そしたら、まあそれなりには、最低限の社会生活をこなすことが出来る。

ただ、社会は待ってはくれません。
明日も仕事や学校はやってくるし、いつまでも引きこもっているなとなる。

「そんな社会捨ててしまえ」

って思います。

だって、光が差し込むには、たっぷりの時間が必要なのですから。

LRでした。おやすみなさい。

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