About LRP:生きてるって確信したい

※このページの文章は、定期的に追記していきます。現在の最終更新日は、2017年12月2日です。

こんにちは。おやすみなさい。
LRです。

このサイトLRPは、芸術家・思想家『LR』のオフィシャルサイトとブログです。

[su_box title=”ざっくりいうとこんな場所” box_color=”#8C1315 ” radius=”0″]作品とかをまとめておく場所であると共に、人生の本質や世界の真理にかかわるようなことをいっぱい考えてきたので、せっかく考えたのなら、何か役に立てないかなと思って、思考をまとめて、公開していくことにしました。LRPはそんなサイトです。[/su_box]

本当は芸術家でも思想家でもミュージシャンでもない、ただの素粒子なのだけど、何もないと分かりづらすぎるので、とりあえずそういうことにしています。

それで、ひとつ大切なお話があって、このサイトについて書こうと思いました。
この前の夏、こんなことを音楽友達に言われたんです。

「君は、すごく分かりづらいことを極めてってるよね!」

まさに!!
たしかにその通りすぎて僕は思わず笑ってしまいました。

だって、瞑想とか真理探究とか精神世界とか、そういう良く分からないものと絡めて、芸術や音楽をやっているからです。

だから、このページAbout LRPでは、僕がつくってる作品の意味とか目的とかについて書きました。大神神社の祝詞を聞きながら。

とはいっても、

ぶっちゃけ何の意味も目的も本当はないのかもと思ってて、

音楽するって、「お腹すいたからご飯たべるよ」みたいなものだと思うんですよね。
好きだからやる、食べたいから食べる、それだけで。

食べる機能であるなら、生命維持のためみたいに殺伐としてしまう時もあって、全部が全部ほのぼのしてるわけでもないんだけども。

でも何だろ、ただ食べるだけ、やりたいからやってるだけだと、たぶん人生に不都合が生じてしまいそうな気がするんです。

だから、もう一度書くけど、

このページAbout LRPでは、僕がつくってる作品の意味とか目的とかについて書きました。

人生をさかのぼって、もう一度、僕と音楽や芸術の関係性をみなおして、定義をしたってことです。

LRPって名前は、

いちおう、LRのプロジェクトってことで、略称でLRPって名前にしています。

プロジェクトって書くと何だか仕事みたいできもちわるいんだけど、適切な名前がわからないのでプロジェクトってことにしてます。

で、このサイトは、僕のつくった曲とか、詩とか、落書きとか、創作物みたいなものをまとめて、残しておくサイトです。

あといつも色んなことを考えすぎて、猛スピードでブドウ糖が消滅していくので、その思考を残しておきたいなっておもってブログも兼ねてます。

なんでこんなことするかっていうと、

人生ってすごい短いよね

ってことなんです。
肩ひじ張って生きていくには、とても短いなぁって。

いや、本当はそんなに短いとは思っていなくて、むしろ長すぎるような気もしてます。

だって、生き抜いてったり、暇つぶししてったり、今の日本なら80年とか平均寿命があるわけで、そんな長い時間何して生きるんかなーって思う時もあるから。

光陰矢の如しみたいな話で、たしかに年をとればとるほど時間は一瞬ですぎるというけれど、それでも何だかなぁって思う。

(逆に2000歳まで生きたいってたまに思うけど)

でもとりあえず僕は人間なわけで、人間って絶対いつか死ぬときが訪れるのであってさ。

だったら死ぬときに「あれやっときゃよかった」「全然やりたいことできんかった」なんて言って死にたくはないじゃんね。それは僕でも感じることなんです。

でね、

僕の父は47歳でガンで亡くなりました。

「いきなり何話してんのこいつは」「同情かおうとしてんの」って思うかもしれないけど、別にそんなことなんも思ってないです。

ただ、このページで何かを伝えたいなって思った時に、書いておきたいなって思ったから書くという感じです。

それで、亡くなったのは、これを書いてる時点で6年ぐらい前のことだったと思う。

僕が言うのもなんだけど、ぶっちゃけ父はそこそこ変わっていた人でした。

占い師で、神道が好きで、「世のため人のため生きなさい」といつも言っていたけれど、その割には私生活はちょっと微妙な人でした。

元気な時は「早く霊界行きたいなぁ、あと火葬の時とか、あの火があったかくてすごく気持ちいいんだよ」とか言ってて、へえそうなんだ、まあ気持ちよさそうだよねとか思って聞いていて。

早く死にたいみたいな感じだったから、ふうん変なのって思ってたけど、たぶん自分なりにいろいろ苦労したんだなあって今は思います。

それで、そんな父が末期の病床にあって、弱った時にポツリとこう言いました。

「やりたいこと、まだまだいっぱいあんのに。」

子どもである僕の前では「怖くないよ」なんて気丈にふるまっていたけれど、ふっと漏れた言葉が意味するのは、やっぱり苦しい怖い、やるせないって気持ちだったと思います。

それから数か月経って、もうだめって電話が鳴って、遠いところに住んでた父のところまで飛んでいって。

僕の顔を見るなり、うつろな目に光がやどって、僕の名前をよんで抱き着いてきて、そのあとまた、モルヒネの世界に沈んでいきました。

その夜の暗い雰囲気の部屋で、ずっと流れていたのが、大神神社の祝詞で。

そして、間際になって、しゃべることも目を開けることも出来ず、呼吸しているだけの時に、一筋、涙が流れていったんです。

「もっと生きたかった。」

そう言っているように、僕には聞こえた。
不思議なんだけど、意識がなくても、意味って伝わってくるんですよね。

だからね、ここから本題で、僕は「あれやっときゃよかった」「全然やりたいことできんかった」とか言って死ぬんじゃなくて、やりたいことをやりたいようにやって、生きていきたいって本気で思うんです。

そうやって生きるのが使命だって、強く感じるんです。

これまでもそれなりに、自由に生きてきたけれど、やっぱり色んなものとぶつかって、自分の心とも闘ったりして、なかなか全うするのは難しくって。

でももう一度、自分の生き方とか、作品とか、音楽に向き合って、本当の人生に向き合いたいなって思っているんです。

そうして、向き合って、見えてきたのは、

生きる意味づくりのために、音楽やってる

ってことでした。

世界って、ものすごく空虚なんですよ。

正確には空虚なんじゃなく、仏教の『空』であるといった方がいいんだけど、ぜんぶ「あるようでない、ないようである」なんですよね。

例えば、「なぜ私は生きているんだろう?」って考えても、心臓が動いてるから生きてるとか、脳が動いてるから生きてるとかは言えるけど、

じゃあ人工心臓の人はどうなの?脳死の人はどうなの?って、ガンガン反論が出てきちゃうから、「今、ぜったいに生きてるぞー!」って確信できないんですよね。

言葉(論理)で確信しようとしたら、いつまでも終わらないんです。

ずっと「それは生きてるって言えるの?」って言われ続けたら、精神崩壊しちゃいますよね。そんなもんなんです。

生きてるって、絶対に確信できない世界に、僕たちは生きてる。

それなのに「うわ今めっちゃ僕生きてるよ!」とか「うげえ死にたいもうやだ死にたい」とか思ったりして、そうやってブレてブレてブレまくるから、生きることって難しいんです。

そこで誰から何かにとことん依存してみて、でも依存対象もどこかへ当然いっちゃうこともあるわけで。

特に人間だったらどこかへ行っちゃうのは良くあることだから、なるべく無機物とか探して、その結果音楽やりだしたりして。

相対的な理由によってしか存在確信できないから、常に動き続ける地表の上に立ってるのと同じなんですよね。それじゃグラグラしちゃうよね。

そのあたりが、世界って本当に不安定というか、すべてが移ろいゆく存在で、形あるものは全て壊れますよってことです。

だから、それを当たり前だと認めて在りのままに見れば、苦しみとかなくなりますよって話。それが諸行無常みたいなものです。

でね、

僕、この諸行無常がむかつくんですよ。

ほんとに天邪鬼だと思うんだけどね、好きじゃないんです。
形あるものは壊れるとか、苦しみがなくなるとか、それは確かなんですけどね。

理由はこうです。
僕は子供時代、こう言われて育ちました。

「絶対にあきらめるな!!がんばれ!まけるな!自己実現しろ!!」

それで、死ぬほど頑張って、受験とか切り抜けてそのまま生きていたけど、倫理の教科書に書いてあった一節が目に留まったんです。

「大人とは、社会の矛盾を諦めて、受け入れることの出来る存在です。」

ハァ!?って思いましたよね。
だって、諦めるな諦めるなって言われてきて、社会の矛盾の部分は受け入れるの?ってなりましたから。

そんなの、都合の良い存在を作ろうとしてるしか僕には思えませんし、実際にそういう意図はあると思います。
でも、もし矛盾の部分があって、それがより良い生き方を妨げているのなら、改善するのが当たり前です。

個のために集団(社会)があって、集団のために個がいるのだから、どちらかが犠牲になっていい話はありません。

それを教科書っていう『教育を施す側の存在』が、最初から「矛盾とか、どうしようもないことは、諦めましょうね」みたいな話、ちょっとおかしいんじゃないかなって思っちゃったんですね。

とにかく「諦めなさい」ってスタンスが、僕にはダメなんです。
生活のような小さなことから、素粒子みたいな少し抽象的な世界の話まで、諦めろ認めろって言われたら、諦めたくなくなっちゃう。天邪鬼ですね。

で、僕がもう、ずっと長い間、「諦めたくない」と強く感じていることがあります。
それは、

生きてるって、絶対に確信できない世界に、僕たちは生きてる。

これです。
相対性で出来てるこの世界が、納得いかないんです。僕は。

だって、ずっと相対世界の中で生きてたら、「ぜったい生きてるわー今生きてるわー」って、絶対的な存在確信は一生できないじゃないですか。

いつも不安定でブレブレな状態で、生き続けていかなきゃいけないんですよ。そんなの安心して眠れないですよ。今日も10時間寝たけど。

だから、つねに動き続ける地表の上に僕たちが生きているのなら、動かない地面を探そうよ!作ってしまおうよ!ってことなんです。

もちろんそのために社会変革を起こしてやろうとか、周囲を変えるって話じゃありません。
一人一宇宙だから、『僕は』そこを諦めないで、生きてやろうって話なんです。

もっと言えば、動かない地面を探して作ろうとしている人たちが集まって、その姿勢を、互いに認めあったらいいと思います。

そしたら「生きてる!」って、本気で確信できるじゃないですか!
だからやりたいし、やるべきだって自分で感じているんです。

それで「動かない地面は、どこにあるんだろう、どうしたら作れるんだろう」って考えて、たどりついた方法論が2つありました。

1.生きる意味をつくること

いっこめは、生きる意味をつくるってことです。

この世界って、さっきも書いたように「心臓が動いてる『から』生きている」とか、何々だから、って前提がないと、存在証明もできないんですよ。

だから、「何々だから生きてるんです」の、何々の部分をとにかくたくさんつくって、なるべくたくさんの人に見てもらって、存在を認識してもらうと良いんです。

そうすれば、いろんな人から「君は何々だから生きてるんだねー」って見られて、定義されてフィードバックいっぱいもらえるから、どんどん自分の地表が固まっていくってわけなんですよ。

そしたらもうカンペキです!究極に最高です!!

……ってほどでもないかもしれないけど、「僕って何々だから生きてるんだよねー」って、実感できるぐらいにはなるかなって思います。

それで、もっとそれをカンペキにするなら、

2.絶対的真理を体感すること

が、重要だと思うんですよね。

「うわやべえ」って思われてそうだけど、「早く霊界に行きたいなあ」とか言ってた占い師の子どもなので、そこそこやばいのは当たり前かもしれない。

いや、ほんとはやばくないはずなんですけどね。いやほんとはやばくないはずなんですけどね。絶対的真理っていうのは、

生きてるって、絶対に確信できない世界に、僕たちは生きてる。

この、相対世界の外に行きましょうってことなんです。

僕たちは、生きてることを証明するなら、ぜったい前提が必要な話はさっきしたと思います。(そもそも証明ってそういうものだけど)

例えば、僕が空からバナナの皮を落としたら、重力って前提を(経験的にでも)知ってるから「重力があるから落ちるよね」って言えますよね。

でも宇宙生物がいて、僕がバナナの皮を投げるのを映像で見たら、「あのバナナの皮はふよふよ浮くに違いない」って思うんですよたぶん。それは無重力が前提の世界だし。

だから、落ちていくバナナの皮を見て、頭の中が「?????」ってなるんですけど、ある時、重力の存在に気がついて、「重力があるから落ちる」って言えるようになります。

もし気がつかなければ「なんて奇怪なものなんだろう」と、相対性で論理づけができないから、たぶん僕は、物の軌道を操れる神様になれるでしょう。

現代人が原始時代でスマホを使ったら、たぶん神になれるみたいなもんです。

そんな風に、しっかり言語で理解して確信するには、ぜったいに前提が必要なんです。もっとそれっぽく言うと、

因果が必要な世界

とも言うかもしれません。

その因果が必要な相対世界を、世界の部分をもう少し抽象化して、僕は”相対有”って呼んでいます。

この世界はすべて相対有で、三次元世界の僕たちがしっかり存在確信するためには、論理で前提を見出して確信するしかないんです。

ただね、ここで不思議なのは、相対有に生きる僕たちはすべて相対性の色眼鏡をかけているから、相対有の相対、”絶対有”もなきゃいけないってことなんですよ。

すべて相対的存在しかないこの世に、絶対的存在が実在するなんておかしいですよね?でも僕たちは、相対的存在の反対をイメージできるんです。これって不思議じゃないですか??

実はこれ「全知全能の神は実在するのか」みたいな話なんですね。

これは数学とかではいないと言われているらしくて、それは僕の直感でもそうだなと思うんですけど、どういうことかというと、

「神(絶対的存在)はイメージ上の存在である」

ってことなんです。
良くいえばイメージ、悪くいえば妄想みたいな。妄想って書くと印象わるくなっちゃうけど、物理的存在としてはどこにもいないってことだと思ってください。

でもね、聖痕現象っていう、キリスト大好きすぎて手のひらにキズが出てきちゃったみたいな話もあって、イメージ上の存在が、物理の世界に影響を及ぼすことだってあります。

「信じてたら病気がなおっちゃった!」みたいな話も、本当にそうなるケースもあります。

そこまで信じている人にとっては、イメージの中に神様っているんですよね。だから、その人にとっては、神様は実在することになる。その人の宇宙は、神がいる世界だと言ってもいいでしょう。一人一宇宙なんです。

だから、僕の宇宙においては、

生きてるって、絶対に確信できない世界に、僕たちは生きてる。

この、相対世界の外に行きましょうってことなんです。

これは可能なんですよ。

諸行無常、仏教の空の、外の世界に行くって話ですね。
その意味では、僕はブッダを超えたいのかもしれません。誕生日も4月8日でいっしょだし。

それでね、陰陽ってあるけど、相対ペアがそろってはじめて完成するんです。プラスイオンとマイナスイオンが同じになったら、原子が安定するみたいな話ですよね。

「陰陽は非科学的だし、原子の安定はミクロ世界の話じゃん。それが世界全体に当てはまるの?」

って話もあるけど、フラクタル性ってあるから、小さな世界も大きな世界も実は一緒で、どの視点でゲシュタルトを持つかって話なんです。

だから、相対ペアをそろえて、存在を安定させること。

僕たちが生きてる”相対有”の世界だけじゃなくて、イメージ上の世界である”絶対有”の世界のリアリティを強く感じるほど、

「本当に生きてる!」って、存在確信できることにつながるんです。

なんかうわやべえって感じです。

で、「どうしたら絶対有のリアリティを、強く感じられるの?」って、その時の方法論としてとても有効なのが、『感性を育てる』ってことなんですよ。瞑想や芸術をするってことです。

なぜなら、絶対有の世界はイメージの世界であるから、イメージのリアリティを強めるのであれば、感性が非常に効くということなんですね。

それでもし、もしですよ、絶対有のリアリティを100%感じることができたなら、相対有と絶対有が、プラスイオンとマイナスイオンみたいに均等になって、世界・存在が安定するじゃないですか。

そしたら、相対有と絶対有でひとつの円が出来上がって、はじめて”真実の有”が見えてくるわけですよ。

その境界線がわかったら、”真実の無”も見えてくると思いませんか?

僕は、

生きてるって確信したい

んです。

それも、究極的に、圧倒的に確信したいんです。
「本当に生きてるー!」って実感したい。

ビールとか飲んで「ぷはー生きてる!」とかじゃなくて、僕は焼酎のが好きだけど、そういうことじゃなくて、

「今、生きてるなー」って、心から言いたいし思いたいんです。ずっとそういうことを考えてきたんです。

だから、音楽するし、芸術する。

それが僕がすごくやりたいことで、あと、生きること追ってたら絶対に生きてるエネルギーとか出るから、そういうので、新次元宇宙生命体になれたらいいと思います。(うわやべえ)

以上でAbout LRPはおわりです。
6841文字の長い文章を読んでくれてありがとう。LRでした。

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