『友達』に国境はないよ(赤池議員のブログの話)

LRででです。

ちょっとニュースで話題になっていて、思うところがあったので書いてみたいのですが!

自民党の赤池誠章参院議員が書いた、ブログのエントリについてです。

(赤池議員のブログエントリより引用)

皆さん、このポスターを見て感じることはありませんか。

「友達に国境はな~い!」

ちびまる子ちゃんは、可愛いいのですが・・・

 私は、このポスターを見て、思わず仰け反りそうになりました。同省政務官時代に、国家公務員として、それも国家の継続を担う文科行政を担う矜持を持て。国際社会とは国家間の国益を巡る戦いの場であり、地球市民、世界市民のコスモポリタンでは通用しないと機会あるごとに言ってきたのに・・・

https://ameblo.jp/akaike-masaaki/entry-12102179497.html

ざっくり言うと、映画ちびまる子ちゃん×国際教育をテーマに、文部科学省が作ったポスターがあるのですが、キャッチコピーに「友達に国境はな〜い!」と書かれているのです。

それに対して赤池議員が、「国境をないがしろにするな!」「国境がないなんて教育的に良くないでしょ!」みたいなことを言っている記事です。

で、結論から言うと「”友達”に国境はないでしょ」というのが僕の意見で、なぜそう思ったかと、議員とはなんだろう?という疑問について、少し書いてみたいと思います。

「友達に国境はな〜い!」の意味

まず『個々人の発言の自由は絶対的に保証されている』『僕(LR)は特別左寄りでもありません』という点は踏まえた上でですが、
このポスターのキャッチコピー「友達に国境はな〜い!」の意味を、赤池議員は取り違えているような気がしています。

つまり、まる子ちゃんのキャッチコピーで言う「友達に国境はない」とは、「”友達”を定義する上で、国境要件は必要ない」という意味ではないかと僕は考えているのです。

「あなたと私は友達だね!」ということを言う時に、

・日本人とアメリカ人だから、友達だね
・アメリカ人とイラン人だけど、友達だね

とか、「A国とB国だから」「A国とB国だけど」とか、そんな前置き(要件)は、特に必要ないのではないでしょうか。

「国境なんか気にせず、フラットに、人と人として友達になろうよ!そこに壁はないよ」と言っているわけですが、そこに異論を挟む余地はあまりないように思います。

それで、赤池議員は、別のエントリでこうも言っています。

【質問1】文科省のホームページでは、映画について「日本の小学校が海外から来た小学校と交流友情を深める姿が描かれて」ていると説明をしていて、「友達に国境はな~い!」のキャッチフレーズもその内容に沿ったものです。ブログでは「国家意識がない」との事で問題視したとのことですが、具体的に何が、どのように問題だとお考えになったのでしょうか。

【回答1】「友達に国境はな~い!」のキャッチフレーズは、いくつか出てきた候補の中から、文部科学省が省の責任でもって選択したことを、当時担当者から直接確認しました。

私が思ったのは、教育行政を司る文部科学省として、子供向けとはいえ、「国境はない」という嘘を教え、誤認をさせてはいけないということです。国境は歴然としてあります。国家があってこそ、私達の平和で安全な暮らしが守られています。国家が発行するパスポートがなければ、出国もできませんし、他国へ入国することもできません。

https://ameblo.jp/akaike-masaaki/entry-12362632221.html

主張のための意図的な引用になってはいけないので、全文が気になる方は上のURLから読んでみてください。

このエントリを踏まえると見えてくるのは、どうやら赤池議員は、『”友達”を定義する要件として国境を考えている』のではなくて、『国境の定義の中に、友達を入れ込んでいる』ということです。

つまり、僕がこれまで書いてきた意見(上の図左、1番)は、友達と国境は全く関係ない存在というのに対し、赤池議員の場合は「まず国家があり、そこに所属する個人があり、その上で友達がある」という考え方が見えてくるのではと考えています。(上の図右、2番)

つまり「全体が個人の属性を決定づけますよ」と言っているのではと思うのです。

(※上の図2番だと二重国籍みたいになっちゃってますが、そうではなく、友達関係が国境要件に影響されるということです)

このような考え方を目にすると、僕はいつも考えることがあります。それは、

「全体が個人を定義するのか、個人の集まりが全体を定義するのか」

ということです。

ゲシュタルトとか集団心理学とか、あと何かの思想のようなものを読んでみても、「相互に影響しあってるよ」で終わりだとは思うのですが、
少なくとも民主主義においては、「個人の集まりが全体を定義する」「個人が幸福になるために政治を生み出した」という考え方は外せないでしょう。

ですが赤池議員は「全体の中の個人として定義する」ようなもので、それが教育行政には大切だと言っています。

国民主権や思想・信条の自由のような話から言っても、国が国民の考え方を一定方向に縛る考え方は、どうも少し全体主義的ではないでしょうか。
個人の意見としては自由ですが、教育行政として介入するのは、ちょっと乱暴かな?と考えているのです。

もちろん、

教育基本法には「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと」とあります。国家・国境があった上で、他国を尊重して、国際社会の中で生きていくことが教育目標に掲げられています。

という考え方は僕も賛同しますし、個人的には筋が通っているというか、
国家・国境の線引をした上で他国と付き合っていく方が、それぞれの領域がはっきりして付き合いやすい面もあると思っています。

少なくとも国家に属する国会議員の立場では、国益を考えるのは第一であるので、その方法論として右よりの手段を取ることは、まったくもって正しいことの一つだと言えます。

ただ、僕が問題だと考えているのは、国家と何ら関係ない『友達要件を表現したキャッチコピー』に対して、
実際に文部科学省に連絡する(=教育行政に介入する)という行動を通して、「教育に良くないでしょ!」と、国として個人の自由を縛る”全体主義的な方向性”の意見をしていることです。(※日本は民主主義ですから)

思想信条も発言も自由ですが、それを権力として行使するとなると、話は別なのです。

もちろん文部科学省が作ったポスターという意味では、国家と間接的に関わりがあるかもしれませんが、それと友達に対する捉え方はまったく別次元の話で、国が特定の意図を持って介入して良いものではありません。

そういうことを踏まえると、

国会議員の仕事とは何だろう?

と考えたりもします。

不思議だなと思うのは、「友達に国境はな〜い!」というキャッチコピーを、なぜ「”友達”を定義する上で、国境要件は必要ない」という捉え方にならなかったのだろう、という部分です。

フラットに考えれば、友達と国境は関係ないよと言っていることは明らかなのに、なぜ国家の定義からキャッチコピーを見てしまったのかという点はすごく不思議です。

友達と国境は関係ないという話をしていることをわかった上で、あえて思想信条のために意見を書いたのか。
それとも「教育はこうあるべき」という考え方とズレていたから、怒ったり呆れたりして書いたのか。

特に後者であれば、ちょっと残念に思います。限定された国家観の押しつけに見えると共に、それは思想信条の自由とかけ離れている考え方だからです。

確かに、国会議員はヴィジョンとルートを示すことは仕事だと思います。

日本政治を良くする3つの意見(森友や公文書改ざんの話を添えて)

一方で、それをどう選び取るかは国民の権利であって、間違っても、固定された国家観に基づく道徳教育を押しつけてはいけませんし、民主主義の後退ですよね。

赤池議員の立場と思想信条は理解しますし、その意見主張の自由は保証されると思いますが、民主主義の本質から見れば、少し考えさせられる出来事でした。

LRでした、おやすみなさい。

PS.広告に入れ込まれる誰かの意図について

ただ、ちょっとだけ付け足しておきたいのは、誰かしらの意図が入った広告もたくさんあるということです。

プロパガンダやサブリミナル、あとマクロな話ですが3S政策に基づいた宣伝など、主義主張問わず、わかりづらく巧妙に、誰かの誘導的意図が仕掛けられていることは多いです。

そういった広告の中にはもちろん、アンチ国家的な政治主張を含んだものもあるのですから、少なくとも国益を守る国会議員の立場としては、ひとこと言わなければならない場面もあるでしょう。

ですから今回のことは、必ずしも物申す国会議員が悪いということではないと、僕は考えています。

片方の意見に視座を固定して見るのではなく、双方の意見から、フラットに見ていきたいなあと改めて感じました。

(2度目ですが)LRでした、おやすみなさい。

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