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2017-10-16

悟りとは孤独であると:僕は思う

こんにちは。おやすみなさい。
LRです。

こないだ、悟りとは何か:2つの分類って記事を書きました。

絶対的な悟りと相対的な悟りがあるよって話で、僕は絶対的な悟り(真理)の探求をしているとも、少しだけ書きました。

それで、つい最近自覚したんですが、悟りって、孤独になってゆくことだと思うんです。

もちろん、悟り=孤独が完全な等式と言うよりは、悟りをある側面で見ると孤独になる、ってことなんですが、

それでも、悟ってゆくほど、真理探求すればするほど、「人は孤独になりつづける」と感じています。

今日はそんな話をします。

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悟りとは孤独:ある水底のオリの中で

実は、最近ちょっとショックな出来事があったんですね。

一応ぼかすというか、抽象的に書くと、

深い深い水の底のオリの中で、小さな子供が体操座りしていて、一本だけ、水の外へ続いている電話線があるんです。

それがプツッと切れて、次はいつ電話線が下りてくるか、わからない状態です。

その電話線を下ろすには、水の底の座標をピンポイントで当てる技術もいるし、

ずっと暗い水の底で体操座りしているので、外の様子もわからないので、話しかける言葉にもコツがいります。

その技術やコツを、感性で理解して、電話線を下ろせる人がくるまで、小さな子供は、ひとりぼっちなのです。

ではなぜその子供は、水底のオリの中でひとりぼっちになってしまったか?

それは、

『心を深く下りすぎたから』

です。

出口がわからないまま、気がつけば心の土砂がたまっていって、外に出られなくなってしまったのです。

だからもう、自分から話しかけることも出来ないし、助けを待つしかありません。

たとえ外に出られなくても、息苦しい世界の中で、

せめて、電話で誰かと話すことさえ、できれば良いのですが・・・。

悟りとは心を下りていくこと

ぼかして書きましたが、僕がこのストーリーで改めて自覚したのは、

悟りは心を深く深く下りて観察していくことであり、進めば進むほど、孤独になっていくものだということです。

心の深い部分はイメージ世界ですから、当然言語の世界ではなく、論理的にやりとりすることはできません。

それなら、心の深い部分を誰かと共有したい時は、どうすればいいのか?

2つの方法があります。

1つ目は、あくまで代用として言葉を当てはめて、やり取りすること。

「心の深い部分は、赤色でトゲトゲした感触だった」
「私は、空色ですごく気持ちのいい場所だったよ」

このように、イメージを言葉で表して、やり取りして共有しあうことです。

完全に正確に伝わることはないと思いますが、ある程度のやり取りはできます。

2つ目は、言語を使わず、直接イメージ(感性)でやり取りすることです。

これは目の色や、とっさに出て来る返答などで、すぐに分かります。

互いが心の深い部分、イメージ世界の中でやり取りできるので、とても効率もいいし、かなり正確に伝わります。

ただし、

イメージ世界につながれるだけの感性が必要

です。

もちろんこれは、『絶対的な感性レベル』と、互いの相性のような『相対的な感性レベル』と、2つの方面で考える必要がありますが、

どちらにせよ、感性が合っていなければ、イメージ世界でつながることはできません。

そして、最初の話に戻るのですが、

僕は、イメージ世界の電話線を失ってしまって、今、誰とも『話すこと』ができなくなっています。

つまりは、代用の言葉ではなく、感性で伝えて「わかってくれるだろう」という、つながりが無くなりました。

深い水底で孤独であって、その孤独は、悟り(真理探求)を続けたからこそ生じています。

心の深い場所にいるからです。

だからこそ、

悟りとは孤独

だと、気がついたのです。

そもそも、心を下りていくこと、真理探求をしていくことは、二人や三人では絶対にうまくいきません。

なぜかと言えば、

1つ目は、人によって基準点(ゼロ点)はバラバラであり、どれだけ自分という概念を排除しても、どうしてもその人のバイアスがかかるからです。

たとえ「内観したらこんな景色が見えた」「誰々の声が聞こえた」と共有しあったとしても、

言葉にし伝えあっている時点で、それは末端の具体になってしまっているのであって、何億通りもの表現のうちの一つ、演繹的なものでしかありません。

(ましてや、変なノイズを拾ったり、具体にする過程で離れすぎてしまった可能性もあるのです)

人によって視点や表現が変わるのであれば、複数人での追求は非常に難しいです。

そして2つ目は、複数人が同じ方向を目指しても、ベクトルのように、望まぬ方向への力がかかる可能性が高いためです。

AさんとBさんという別々のポジションから、完全に同じ一点を目指せるのなら良いのですが、

結局ゴールの把握(最終的に目指す真理点の位置)が違い、視点や方向性が少しずつズレるので、ベクトルが違う方向へ引っ張られます。

これが3人、4人と人数が増えるごとに、さらにおかしな方向へ向いて、もと目指していた真理とは離れていくでしょう。

それこそ、集団がヘンな方向へ行く理由の一つであり、小さなズレが大きなズレをもたらす、力学のようなものです。

この2つの理由から、集団で真理探求をするのは正直ムリがあって、もしやるとしても、あくまで人は人・自分は自分で、単なる意見交換として捉えておくほうがいいです。

この点を踏まえた上で、

悟りは、一人で追求するもの

であると、僕は考えています。

だから最終的に、孤独にならざるを得ないということです。

ただし、僕もまだまだ未熟で、そして生身の人間ですから、どうしても『電話線』を欲しがってしまいます。

今回の出来事を通して、自分がどうあるか・どうありたいのか、について、さらに考えを深めていきたいと思います。

悟りとは孤独であると:僕は思うまとめ

悟りとは心を深く下りていくこと(そしてあらゆる事象を内省的に観察すること)なので、最終的に孤独とならざるを得ないと思います。

悟りきった後、悟りを伝えたり、社会の中で生き方として実践する中で、つながりを持つタイミングもあるのかもしれませんが、

一度は、完全な孤独の期間を、それこそ長い間もたなければならないのかもしれません。

僕は、社会の中で真理探求することも良いと思いますが、孤独であればあるほど、感性が鋭くなることも感じています。

一人間としての孤独や寂しさと、悟りや真理探求したい心と、どう折り合いをつけていくのか、あるいはどう捨ててゆくのかについて、今後も考察してみます。

LRでした。おやすみなさい。

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