死ぬ権利は保証されるべきか考えてみた話

LRででです。

この頃も相変わらず忙しくって、更新が空いてしまいました。

なるべく毎日書いていきたいとは思うんだけど、メリハリつかない状態だとなかなかダメでござります。

それでこの前、布団の上でうとうとしながら、こんなこと考えてました。

「死ぬ権利って保証されるべきなのかな?」

最近はよく死にたいなあなんて思ってまして、それはネガティブに死にたいというよりは、人生だいぶ満足してきたな的な意味なのです。

死にたい気持ちと向き合う心

いや、ほんとはやりたいこととかいっぱいあるのだけど、まあやらなくてもいっか、ぐらいで。

そんな気分なので、痛いのはやだけど、安楽死薬ほしいなあとかたまに思ってます。(実際直面すれば恐怖はあるのだろうけど)

で、それの延長線上で「死ぬ権利って保証されるべきか」を考えてみたので、一応ここに考えの過程を残してみたいと思います。

※この記事は選択肢としての死ぬ権利について考えてみてますが、自死を推奨するものではありません。

生きる権利の中の死ぬ権利として捉えてみる

そもそも死ぬ権利って『死への選択の自由』なので、生き方の自由権とか、幸福追求権の一つみたいなところがあると思います。

人生をどう生きるかは当然にその人の自由が保証されるべきで、その自由に生きる権利の中に「いつ死ぬか」が含まれていても何ら不思議ではないでしょう。

だから、生き方の自由としての死ぬ権利はまずあって、その上で、他者の何らかの権利を侵さないこと(人に迷惑をかけない)とか、そういうものとの兼ね合いになるのかなとは思っています。

最終的に表記されるかは別として、ひとまず一次的な権利としては、認められてしかるべきじゃないかなと思います。
その意味では、死ぬ権利は保証されても良いのではないでしょうか。

ただ、

『権利の概念』は憲法が定めているもので、いわば社会契約

なんですよね。

国(社会)と国民の関係性を定めるものが社会契約の概念で、その社会契約の概念の中に憲法があり、さらにその中で権利が保証されているということです。

ではその社会契約の概念がなぜ生まれてきたかと思えば、『秩序だった社会を実現するため』なんですよね。つまりは『より良い社会を創ること』が目的としてあるわけです。

そう考えると、「死ぬ権利は、秩序だった社会実現と相反していないか?」という疑問がわいてきます。

実際の死を考えてみると、戸籍や相続・お墓はどうするのか・残された人は悲しまないか、とか、法的な面や人間関係の面などで、相当に社会的影響力が大きいですよね。

もし死ぬ権利を保証してどんどん実行する人が出てきてしまうと、間違いなく秩序は乱れますし、より良い社会とはならない可能性が高そうなのです。

また、現実に契約をするのは現代では”国家と国民”なので、人口やGDPなど国益の面を考えても、国としてあんまり保証したくないのが本音だと思います。

だから、秩序だった社会実現という契約の目的にそぐわないので、契約の中の概念としての『死ぬ権利』は、全面的に保証されることはないだろうなあと。

ただ、もう少し踏み込んで考えると、

契約なんかなくても個人の自由は当たり前にある

のではないかなあと思います。
契約によって保証される以前に、まず個人の自由として、どんな生き方の選択肢もそこにあると。

野生動物、特に単体で生きる系の動物に、保証以前の自由があるのと一緒です。こういうの自然権って言うのかな。

だから、実装ルール(実定法)としての社会契約(憲法や法律)よりも、上位の概念としての自然権がまず『死ぬ権利』を100%保証していて、それを現実に当てはめる際に、どうするかという話だと思うんですよね。

それで、

秩序だった社会という契約の目的にそぐわないので、契約の中の概念としての『死ぬ権利』は、全面的に保証されることはないだろうなあ

ということになってくる気がします。

なので『死ぬ権利は保証されるべきか』という問いに対しては、

「個人的には、選択肢が用意されていても良いと思うけど、現実のルールとして、全面的に保証されることはきっとない。」

という考えになりました。

こういう話って法学部とか哲学部でやるんでしょうか。構造があって、言葉の立体パズルみたいで興味深いです。

LRでした、おやすみなさい。

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