悟りとは何か:2つの分類

こんにちは。おやすみなさい。
LRです。

悟りとは何か。

「うわまたやべー話しだしたぞ」「何かえらそうだぞこいつ」って思ったらごめんなさい。

こういうことを考えてるのが、三度の飯の次ぐらいに楽しいんです。

悟りってなんだろーって思います。

3歳のころからずっと考え続けてきたり、本を読んだりして、「なるほどこれが悟りか」みたいなものはあったんだけども。

必ずしもそれが正しいとは言えないし、もちろん断定するような性質のものでもないんですが、

たぶん悟りって言葉、大まかに2つの意味で使われている気がするんです。

そこで今日は、悟りとは何かを考える上で、2つの分類について書いていきたいと思います。

相対的な悟りと絶対的な悟り

大まかに言うと、相対的なモノサシでの悟りと、絶対的なモノサシでの悟りがあると思うんですね。

たとえば、「恋愛はこういうものだと悟った」とかだと、「恋愛というジャンル内におけるモノサシ」の中で、何かしらの本質にたどり着いたということです。

これが相対的な悟りです。

そして、「世界の存在の真実を悟った」とかだと、「存在そのもののモノサシ」の中で、何かしらの本質を見つけたということ。

もちろん、世界の存在をひとつのジャンルとしてとらえれば、上の相対的なモノサシと一緒かもしれませんけど、

相対的なモノサシと違うのは、世界の存在が恋愛などすべてを内包していて、究極に深い根本原理を追求しているということです。

なので、絶対的な悟りとしています。

もう少し詳しく見ていきましょう。

相対的な悟りとは

相対的な悟りは、あらゆるジャンルにおける本質を見極めるものです。

たとえば、野球のイチロー選手がバッティングの真理を見極めているとしたら、その真理は、バッティングの上手さという基準を作った上での、相対的な悟りなんですね。

この基準は座標でいえばゼロ点で、どこを基準にするかというのは、見る人の認識次第でいくらでも変わります。

もしバッティングのうまさというモノサシの中で究極的真理を見つけたとして、ヒットを打つための真理は、当然テニスで球を打ち返す真理とは違うわけです。

(もちろん、野球もテニスも同じスポーツに内包されるので、似た部分を見出すこともできるでしょう)

このように、まず基準となるゼロ点を定めた上で、「究極的本質を理解すること」が、相対的な悟りです。

絶対的な悟りとは

一方で、絶対的な悟りというのは、「真理探究をする」という、絶対的なひとつのモノサシの上で追求していくものです。

ではその絶対的なモノサシって何?と言えば、それは「存在を探求すること」という言い方が近いでしょう。

たとえば、僕たちはみんな素粒子ですよね。

たかしくん・さちこちゃん、なんて名前をもって僕たちは社会に生きているわけですが、本質的には、みんな細胞のかたまりです。

(余談ですが、細胞のかたまりと言われて嫌悪感を感じたら、それが生存欲求です。)

そして、細胞をもっとミクロに見れば、みんな素粒子であって、人間や生物だけでなく、スマホもイスも、電車も地面も全部おんなじ素粒子なんです。

みんなおんなじで、宇宙には素粒子一種類しかないのですから、本来は、名前など必要ないんですね。(宇宙が一つとよく言われるゆえんです)

けれども、僕たちは名前をつけていて、それは社会を成り立たせるため、生存していくために行われています。

「全部素粒子だけど、名前つけないと生物的に生きていけないから、認識の上で仮に名前つけようかー」

みたいな感じです。素粒子や細胞のかたまりを一個体とみなす、ゲシュタルトということですね。

このような、存在とは何なのか、世界の真理は何なのかといった、本質的な部分を追求していくのが、絶対的な悟りだということです。

絶対的な悟りと相対的な悟りの違いについて

ではなぜ、絶対的な悟りと相対的な悟りが生まれたのかというと、おそらく最初は「悟り=絶対的な悟り」だったと思うんですね。

たとえばブッダは間違いなく絶対的な悟りをひらきましたが、同時代に戦争の真理を悟った将軍がいたとしても、決して悟りとは呼ばなかったでしょう。

けれども、たぶん言葉のあやというか、言語文化の流れの中で、狭いジャンルを極めた人も、悟っていると言われるようになったのだと思います。

(狭いジャンルから、絶対的悟りにアクセスすることも可能ですが)

この辺りは、どちらが良い悪いという話ではないですが、そのような違いがあるということです。

少なくとも今の日本において、ブッダの時代ほど、聖者が必要とされなくなっているのは確かであって、

禅など、歴史的にも長い時間をかけて悟りが一般化しつつあるので、悟りがちょっとだけポップ化したということかもしれません。

悟りとは何か:2つの分類まとめ

悟りには、絶対的なものと相対的なものがあります。

僕としては絶対的な悟りの方向性で、思考などをして真理探究しつづけていますが、

どちらを選ぶかというのは、趣味の範囲内なので好きに選ぶのが良いかと思います。

ただ、どんなジャンルであっても、「悟った」と言えるほどに本質を追求するのは、あらゆる面でとても良いことです。

もし極めたいジャンルがあったら、ぜひやってみてくださいね。

LRでした。おやすみなさい。

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